- 2011年7月18日 22:16
- IAV news
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■井野アーティストヴィレッジ gallery 101
日時|2011年7月16日(土)〜7月30日(土)
時間|10時〜17時
入場|無料
場所|井野アーティストヴィレッジ(茨城県取手市井野団地3-16)
アクセス|JR常磐線取手駅東口より徒歩15分
取手駅東口より関東鉄道バス「井野団地」下車すぐ
URL|http://inoav.org
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■IAV Selection vol.7 佐々木 勇貴 "not choas but anarchy "
今回の展示のタイトル "not choas but anarchy " は、
ふたつの音楽ネタからインスパイアされた(パクったとも言う)。
ひとつは、山本精一が率いたポップスバンド"羅針盤"の歌詞にある、
「カオスなんか殺せ」という一節。
もうひとつは、白石美雪さんが書いたジョン・ケージの本の副題、
「混沌ではなくアナーキ」。
カオスとアナーキー。
似ているようで非なるふたつの事柄。
展示にあたって考えたのは、なぜかこのふたつの違いについてだった。
例えば、中国の故事に「混沌、七穴に死す」というお話がある(荘子だったか)。
目、耳、口、鼻がない皇帝--混沌のために、
南海の皇帝と北海の皇帝が七つの穴を開けてやったら死んでしまった、というお話だ。
この話は「混沌に無理に秩序を与えてはならない」という教訓が含まれている。
興味深いのは、混沌に与えられた秩序というのが、感覚器官であったこと。
そして、混沌を混沌としてアイデンティファイ可能とするための表情=キャラクター、であったことだ。
混沌は現象であって(ちなみに、混沌を語源とする言葉に"うどん"がある)、
それを所有しようとしたり、まして特許のごとく独占しようとすると(キャラ付けすると)、混沌らしさを失い死んでしまうことが語られている。
だから、言葉にされた"混沌"には気をつけた方が良いのかもしれない。
それはもう、本来の姿を失った死に体の混沌の可能性が高い。
そう考えれば、「カオスなんか殺せ」というのは存外難しいことではないかも。
混沌は秩序を与えられたら、勝手に自滅してしまうぐらいナイーブなものなのかもしれない。
では、アナーキーはどうか。
アナーキーの語源は、ギリシャ語のánarchosである。
統治者を意味するarchêの打ちし消しanによってánarchosとなる。
確かに、人の世に秩序を与えるのは往々にして統治者=政府であり、
国家権力は営みとしての時間さえ秩序付ける。
ゆえに、アナーキーはまず秩序を前提としている、と言えるだろう。
すでに、どうしようもないほどに秩序付けられた状況からどのように逃れるか。
バイアスを強制する指導者からどうのように逃げ出すかがアナーキーの戦術である。
アナーキーと混沌との違いは、秩序との関係性にあると言えるだろう。
アナーキーは形式を拒否しない。
使えるものはなんでも使う。
アナーキーの最大の敵は、自分の中に住み着くドグマである。
一切のこだわり、自らを律する統治者を持たないのが、
アナーキーのアナーキーたる所以なのだ。
そういえば、先の混沌は皇帝=統治者であった。
混沌の故事は、権力に対する警告でもあったのかもしれない。
どういうわけか芸術というのはずいぶんと整理されてきた(不思議なことに)。
だから、芸術にルールがあるのも、マナーがあるのも認める。
けれど、それは、"今"のルールであり、マナーである。
もし、時間錯誤のアナーキーが有効だと考えるなら、
今の自分を理解できては決してならない。
作品は、常にずっと先に仕掛けられた時限爆弾である
(そういえば、anarchosはanachro"アナクロ"とも類似している)。
アーティストが、社会に対して貢献できることは、
ヘゲモニーから外れた時間を内在してみせることぐらいだろう。
そう考えると、自らをアーティストと標榜する人で、
ほんとのアーティストに出会ったことがほとんどないのにもうなづける(難儀な話だ)。
名付けること=表象することは、
作品をつくるうえで/発表するうえで、常に付いてまわる問題である
(生きていれば死ぬように)。
けれど、必ず、表象できないものがある。
そして「表象のできなさ」を声高に叫ぶのも嘘くさい。
選択肢は無限ではないが、さりとて一つだけでもないだろう。
今あるものと付き合い、けれど今には頼らない。
今は/を、そんな風に考えている。
文責 / 佐々木勇貴
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■作家プロフィール:
佐々木勇貴/Yuki SASAKI
1984年 東京生まれ
2008年 武蔵野美術大学芸術文化学科卒業